Forty Three point Two

やってらんねえよな

世はプレミアムフライデーと言うけれど。

 初のプレミアムフライデーとなった先週の金曜日、僕は大学に向かう電車に乗っていた。どうにか確保した座席で、駅前のドラッグストアで入手したカフェイン剤を愛用のピルケースに移していた。いつだってカフェインは労働者の味方だ。産業革命期のロンドンでは砂糖入りの紅茶が労働者の血糖値を上げ、彼らを覚醒させていたと言う。ネットで読んだ、カフェインは世界一のドラッグだ、という話は根拠のないものだったと記憶しているけど、そう思いたくなるのも無理はない。夜勤明けの僕はちょっとした書類を出しに大学に向かっていた。仕事中こそ眠くはないが、気を抜くと眠ってしまいそうだった。カフェインは夜勤明けに欠かせないものだった。ピルケースに何度も世話になっているパッケージのカフェイン剤を一箱分、丸々移して持ち歩いている。カフェインとのズブズブな関係。労働者のおかれる環境は最悪だ。

 夜勤明けの日にもう一つの飲食店でのアルバイトを入れたのはその日が初めてだった。奇しくも初のプレミアムフライデー。15時退社なんてのは幻想で、15時から出勤した。twitterで、ニュースの街頭インタビューを受けるサラリーマンについて、(彼らは夜の新橋の街でお酒を飲んだ帰りであることが多いのだけど)、彼らが本社勤務で定時退社できるエリートであるということを知ったのは大人になってからだった、という旨のツイートを読んだことがある。プレミアムフライデーもその通りで、15時に退社して"豊かなひととき"を過ごせるのはエリートだけなんじゃないか。退社したエリート達の受け皿になるのは飲食店で働く人たちで、彼らにプレミアムなフライデーなんて何処にもないのではないか。パート、アルバイトみたいな、そういう働き方をする人は救われない、"働き方改革"なのではないか。

 そんな想いを胸に、寝不足の僕はオーダーをミスし、来月のシフトを出し忘れ、倉庫の鍵をかけずに帰宅しお叱りを受けるなど、散々なプレミアムフライデーを過ごした。

 厭世観の持ち主というか、人間に絶望しているような人が好きなのだけれど、それはたぶん自分に少しはそういう考えがあるからなのと、変に期待されないところが生きやすいのかなと思う。

 それとは少し異なる視線からの言及になるけれど、自称クズはどうあがいてもクズだし、嫌いなのかもしれない。何がどう変わろうとも、人間はクズだからクズを自称することは人間を自称するくらい意味のないことというか、あなたがクズなのは自明ですよ、としか感想を抱けない点でまず面白みに欠ける。もっとひどいのは、クズを自称する奴はクズを自称することが免罪符になると思ってる節がある、というか、クズを履き違えてるよ。好きな人以外と酔ってキスした話とか、その相手にも好きな人がいてそれは自分でない話とか、その一時の快楽と感情の起伏に流されただけでしょ、知らないよそんなの、としか言えない。直接は言えないんだけどね。

酒盛り 自宅にて 24時過ぎ

 親父は大学に入学したらお酒を飲んでもいいと言った。それで僕は当然のようにお酒を飲んでいた。一緒に飲めるようになったのが嬉しいのか、父はたまに酒を買ってくれた。母親と妹が寝た後、親父が好きな音楽をかけながら互いの話をして飲む黒ラベルはたぶん僕が口にするお酒の中で抜きん出て幸せな味がするものだというのは間違いないように思われる。

書き初め 自宅にて

 気がつくと三が日も終わろうとしている。義務教育を終えてから、書き初めなんてことはしてないけれど、気持ちを新たに今年の抱負を書くのはいいことなのかもしれないななんて妹が書き初めているのを眺めながら思いついたので、こたつから重い体を引っこ抜きMacBookを取り出した。

 三日前、大晦日の年がこすぞという瞬間僕は恋人の最寄り駅のベンチで酔っ払ったおじさんと、ガラケーを虫眼鏡を使って覗きこむもっと年のいったおじさんと3人で過ごしていた。例えば会話をしたりしたわけではないので、過ごした、という表現が適切だとも思わないが、街が死んだかのように誰もいない駅のホームに偶然居合わせた3人の男が年越しという限りなく少ない時間を共有したという点で、過ごした、と書かなければ僕はやってられないのかもしれない。

 予定の電車を一本逃すペースで遅刻してきた恋人と初詣をして日の出を見た。今年一年はどんな年になるのだろうか。それは果てしなく遠い先のことのように思えていたけれど、今年も3日過ぎた。きっと、この三日間のように色んな人に連絡をとり、忙しくも暇でもない生半可で生ぬるい、それでいて残酷な現実を適当にあしらい、そんな現実から時に逃避し、眠り、食べ、そうこうしているうちにあっという間に終わるんだろうな、なんてことを去年の今頃も思っていた気がする。

 映画を観ます。月に一本は映画館で、月に一本はTSUTAYAitunesかHuluかNetflixかなんでもいいので、月に二本ペース、24本は観る。

 本を読みます。主に通学時間を使う。往復三時間、友人のいない僕は無駄にしがちであるから、有効に使うために読書する。ダウンロードした論文でも、電子書籍でも小説でも新書でも自己啓発系の本でもなんでもいい。とにかく読む。数字は決めない。週一目安、月4くらい。

 仕事にすぐ取り掛かる。タスクを後回しにしない。できるものはすぐ潰す。

 妥協しない。締切に追われて完成を目指した仕事をしない。完成させた上で完璧を目指せる余裕をもって仕事する。

 中途半端な仕事をしない。最後までやる。

 目標を口にする。 

 些細なことでもいいから、言葉を書き続ける。文章にする。どんなに拙くても、少しでも考えていることを残そうとする。書き表す努力をする。表現しようとする。

 一生懸命生きる。

 

今年もよろしくおねがいします。

クリスマス狂騒曲

 狂った様を言い表したくて、「きょうそうきょく」と打って狂想曲と変換しようとした僕のMacBookには「狂騒曲」の文字が現れて、これほどぴったりな言葉はないな、と歓喜した。音楽の用語に対する知識は皆無だけれど、日本のクリスマスは狂っていて騒がしいもので、この漢字をあてるのがぴったりだろう。狂ってないクリスマスがあるのかどうかは知らないけれど。

 クリスマスイブはどこに行っても人しかいなくて、ここは本当に日本か、と疑いたくもなったし、逆に日本らしいなと変に安心するところもあった。東京の人混みは、人混みであるけれど整然としているところがあるというか、どこか暗黙のルールがあって、それが東京を大人の街にしている要因でもあるのだろうけれど、僕の住む街は子連れの家族が多くて、人の動きを予測するのがとても難しい。人混みに揉まれ続けて疲れたからか、その日の午後はひどい頭痛に苛まれた。ひどい夜だった。

 次の日目覚めて、ようやく頭痛がひいたことと自分が眠っていた事に気がついた僕は普段より軽い足取りでアルバイトに向かった。何の変哲もない日曜日であった。そこにはクリスマスだなんて西洋気取りの僕らから見れば異端なことを言い出す輩など1人もいなくて12月25日日曜日は、多数の来客と急に病欠した店員によって忙殺された。アルバイトが終わった頃には、(正確にはアルバイトが終わる一時間半くらい前からだけど)立っているのがやっとなほどふくらはぎが悲鳴をあげていた。

 その日の恋人もいつもと変わらなくて、僕達のなかにクリスマスは存在しなかったし、存在すれば僕たちは僕達ではなくなるのだろうなと思った。贈り物を送りながらも、クリスマスだなんて言い訳せずに物を贈れる関係がいいよな、とも思った。

クリスマス前 職場にて

「クリスマスはさ、なにするの?」と、ボスが聞いてきた。僕は職場にいた。大学が休みの間、事務の仕事を得ていた。それは、渡される書類の束に必要事項が記入されているか確認し、時に帳簿に転記したり、時にコンピュータに入力したりする仕事だった。簡単な仕事だった。そして、とても暇な仕事だった。一時間に一度、書類の束が渡される。それをさばくのに30分ほどかかる。が、終わってしまえば他にすることはなかった。次の書類の束が来るまでの間、僕は暇そうに時計を眺めたり、頬杖をついたり、電卓で来月入るであろう給料の計算をしたりしていた。ボスとその部下達はは、忙しそうに動き回っていたけれど、僕に任される仕事はそれきりで、ただ邪魔にならないように自分のデスクで縮こまってるしかなかった。それでも、ボスは自分の食事を取る合間に、僕に構ってくれた。

バイトですよ」と僕はクリスマスの予定を告げた。夏休み前から初めて、辞めよう辞めようと思いながらクリスマスまで続けている、アルバイト。その返事を聞いて、ボスは不満そうだった。「クリスマスなんだからさ、作ろうよ、彼女をさ」と続けたボスに、僕は小声で「彼女はいますよ」と伝えたが、ボスの耳には届かなかったらしく、その後もボスはブツブツと小言を言っていた。

 世の中はクリスマス一色だ。どんなお店に行っても、クリスマスソングが流れている。そして、世間はクリスマスをパートナーと過ごすものだと、勝手に意識している。誰も、そんなことを強要していないのに、ひどい自意識で、1人ぼっちの自分を攻め続ける。どうしようもないその自意識の矛先は、自意識の域を超え、他人に向かっていき、きっと誰かを傷つけるのだろう。

 僕はボスの小言を聞きながら、クリスマスだから恋人になったわけでもないし、クリスマスだからそばにいるわけでもないのにな、と思った。クリスマス恋愛至上主義のみなさんは、クリスマス以外は恋人と会わないのだろうか、なんてくだらないことを考えながら、残りの仕事を終わらせた。

 職場を出た僕は、昼間の暖かさにかまけて薄着して来たことを後悔した。

冬季休業前 キャンパスにて

 冬季休業前の、キャンパスが好きだ。大学の、いわゆる冬休みを冬季休業と呼ぶのか否かは知らないが、人の少ないキャンパスは好きだ、と思った。それは下校時間直前の、人気のない高校の雰囲気に似ているからなのかも知れない。

 僕は2限が始まる時間に起きて、結局3限が始まって30分も経ってから教室にたどり着く行程で大学に向かっていた。駅から大学まで歩きながら、自動販売機の前を通り過ぎ、カルピスソーダが安く売られていることに気がつき、恋人がカルピスソーダを好きなのを思い出しながら、早足で教室に向かった。

 教室についても、入り口近くの数人の学生が一瞬振り返るだけで、下を向いて話し続ける教授は、遅れて入って来た僕に気がつくそぶりもない。遅刻に寛大なその教授は、昼食後の学生が興味を持って聞くような話はせず、子守唄のように心地よいペースで道徳教育について語っていた。学生は教室の後ろの方の席にかたまってスマホをいじったり、突っ伏して居眠りを決め込んだり、思い思いに退屈な午後のひとときを過ごしていた。僕はMacBookを取り出して、抱えていた幾つかの済ませなければならない用事と確認事項をに取り組んだ。それらがちょうど終わる頃、教授の「今日はこのくらいにしましょう」の声が古いスピーカーを通して、教室に拡散された。出席表の回収はされなかった。

 授業が終わった後、僕は図書館へ向かった。冬休みは短くて、今持っている本で十分終わってしまいそうだったけど、夜ある飲み会まで暇だったので、金がかからない時間の潰し方として適するであろう選択肢を選んだつもりだった。結果として、ちょうど読んでみたいと思っていた本を思い出し、検索をかけたがすべて貸出中であったために、どうしてもその本を手に入れたくなった僕は生協で本を買う羽目になったが。

 目当ての本を手に入れ、最初の章を読み終えた頃、自分が昼食を食べていないことに気がついた。空きっ腹にお酒をいれるのが嫌だったので、学食で軽く食事を済ませることにした。17時過ぎの学食は、談笑する学生の数もまばらで、年末の営業予定表なんかを張り出していて、僕はその雰囲気をひどく気に入った。入学当初こそ利用すれど、最近は使わなくなったな学食は季節によって違うのか、僕の知っているメニューは殆どなかった。知っているメニューの中からカツカレーを選んだのは、高校時代の学食を思い出したからだろうか。学生アルバイトなのか、ハキハキ話すことができなさそうな店員が盛ってくれたカツカレーは、カツがメニューの写真のようには切れていなかったし、一切れサービスしてくれるなんてこともなかった。安っちいチキンカツではあったけれど、たまに一切れサービスしてくれた、無愛想な高校の学食のおばさんが、ひどく懐かしく感じられた。